道徳の基本

人間にとって一番大切なのは、自分より大なるもの、自分より大きいものに対する尊敬の念を持つということである。

敬ができていれば、恥じる心が生まれる。
敬するというのは、より高きものに対する人間独特の心で、敬するから、至らない自分を省みて恥じる。

恥じるから慎み、そして戒める。
これが道徳の基本である。

人間は敬うものを持たないと、驕(おご)りにつながると思うんです。

最近の政治家なんかを見ていてもつくづく思いますが、謙虚さを失ってしまうと、もう人間は伸びません。

だから、私が最近若い人に言うのは、何か一つ自分が敬うものを持とうじゃないかと。
それを復活することが、日本に正しい学を復活させることにつながると思うんです。

敬というのは、大切だと思います。

日本の武道では、相手に敵わないときに、相手に対して「参りました」と言います。
これは、相手に対して「あなたのほうが上だ」と言っているわけですが、同時に、あなたを敬うという素直な態度も込められていると。
「参った」
と礼をして下がり、さらに修行を積んで自分を高めていく。
すると、新たに追究していくものがまたそこから出てくるのです。

つまり、礼というものは、相手にただお辞儀をするのではない。
相手を通して自分に返ってくるものであって、自分に対してするということが本当の礼であると。
最終的に自分に返ってくるならば、常に自分を省みることが必要になります。
ここに徳性の基本があるのではと思いますし、
こういうことを理解することが、おのずと徳性を身につけることにつながっていくのではないかとも思います。
そういうことがもっと社会のなかに浸透してくればいいと思うんです。

———–致知2002年5月号特集「このままではいけない」より抜粋———-

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実はつい先日、うちのスタッフを叱りました。
彼の受け答えによってはクラブを辞めてもらう覚悟で叱りました。

道徳の基本を彼には話しました。

私のクラブは「自分で考える・良い悪いが判断できる」人間を育てる事を理念に置いているクラブです。

挨拶にしても、大声を出せば良い挨拶とは限りません。
雑踏の中でしたら周りに迷惑がかかります。

試合の最中に次試合のアップチームがピッチサイドでバカみたいにブラ体の声かけから始まって「気合いだしていこうぜ~」と大声出し続けているチームがあります。
これも自分のことしか考えていない典型です。

試合終了後の握手にしても顔すら見ないで指先4本軽くタッチするだけのチームもあります。
目と目を合わせるのは当然ですし、本当に感謝の念があると自然に両手で握手となるものです。

一番大切な所を選手達に伝えなければ、相手チームの監督さんに挨拶に行く必要はありません。

社会においても形だけの会議で日当が出たり、偉い人?が秘書の書いた決まり切った祝辞の棒読みが3人も続くとうんざりです。
この偉い人?は本当に子ども達の門出を祝福に来たのであろうか?
それとも来てやったとでも思っているのだろうか?
伝えたい事がないのなら祝辞はしないほうがよいです。子ども達はラッキーと喜びます。

いつも選手達に諭しています。
言われ事だけをしていては限界がある。
相手の立場や気持ちを考えて行動しなさい。
こう行動すれば仲間は喜ぶだろうな、仲間を未然に助けられるだろうな。
そう考えれば自然と行動に移せる。と。

寝そべって唾を吐けば自分の顔に戻ってくるのと同じとも言っています。

その毎日の習慣がサッカーでも同様に活きてきます。

自由ほど大変なのです。
決められたルールがある。
その中でドリブルをしたりパスをしたり自分達で決めていくのです。
ゴールを奪うために、ゴールを守るために、どう勝利に導くために、どう自分達で最適な判断をチョィスできるのかが自由なんです。

それは社会のルールと同じなんです。

全ては日頃の道徳の基本につながっています。

そんなクラブであるからこそ、常日頃選手達にそれを伝える立場のコーチが、
「言った言わない」等、自分を正当化する発言はダメなんです。

事の本質はそんな所ではないのです。
敬するこころがあれば自然と答えは導かられるからです。

それがないと選手達から敬されなくなります。
選手達を真剣に叱れなくなってしまいます。
安心して選手達の指導者として託せなくなります。

どこかの教員や、公務員や、政治家と一緒になってしまいます。
自分の責任にならなければ、あとはしらない、ではダメなんです。

それが道徳の基本です。

選手も指導者も育てる立場になってしまった私ですが、

選手や若い指導者達から学ぶ事の方が多いのが事実です。

これでまた彼がひとまわり成長してくれた嬉しいと思っています。

なぜならば彼から私が学べるからです。

そんな試験休みの一日でした。

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立春大吉

立春とは春が始まる第1歩です。

立春からこの1週間だけでも錦糸町・四谷・青山等で多くの方とお会いしています。

週末も9時から12時まで八ヶ岳でトレーニングでしたが、15時には表参道の某所にいました。
他の日もだいたい同じようにお会いする3時間前までは八ヶ岳にいます。

結構やることあるんです。
本読んだり、ランニングしたり、電話したり、(これって仕事とは言わないか)

どうも八ヶ岳が本当に好きなようです。

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※毎日朝・八ヶ岳から見る富士山に心が浄化されています。

都会は高層ビルが沢山あって高いな~と見上げてしまいますが、よくよく考えてみると
私の住んでいるDENは標高1.000メートルです。
スカイツリーが634メートルですからそれよりも高い所に住んでいるんですね。
だから本当は私達田舎者の方がビルを見上げる必要はないんですね。

これがドラマでしたら、
八ヶ岳から高級スーツに身を包みポルシェで颯爽とちょいワルおやじが表参道に現れて格好よく・・・。

実際は車整備時以外洗車したことのない山梨ナンバーの汚れたランクルから白髪おやじがユニクロのジーパンにジャケット姿で表参道ですから・・・別の意味で目立ってますね。

私はヒトに興味があります。
自分と違うタイプの方と話しをしていると楽しくなります。

料理に例えると
美味しい料理を作りたい。から始まり。
今度は仲間や大勢の方々に食べて貰いたいと思う。
美味しいと言って貰いたい。喜んで貰いたい。
健康に良い料理を食べて貰いたい。食材そのものも大切にしたい。

そうなると、食材を吟味したり、様々な料理方法、食べる場所や時間、食べて貰う人の性別や年齢や健康状態やランチや夕食なのかも想像するし、何かの記念日、一人なのか二人なのかグループなのか・・・。

本気で試行錯誤を繰り返し繰り返し積み重ねてきた人は、他人を受け入れられるようになってくるとつくづく感じます。

だから試行錯誤してきた域の料理人の方々はお互いの人生や料理を尊重しあえます。
そして話題の中から得られるヒントを沢山持って帰って自分の料理に更に研きがかかっていきます。

お互いの域が低いときっと料理の話題はしないでしょうね。
盗まれるとか・・・俺の方が上だからとか・・・まだまだ小さなプライドの対決ですからね。

話しは一番最初に戻ります。

私はサッカーの指導者ですが、求めているのはサッカーのテクニックではなくて、子どもひとりひとりのヒトが成長していく過程そのものなんです。

よって
サッカー仲間の方々と騒ぐのも嫌いではないですがスタイルやテクニックや戦術の話しや他チームの話題や噂・・・で集まるよりも、
経営者の方やアーティストの方や研究者の方とお会いする頻度が多いです。
なぜならばお互いの求めている域が近いからだと思います。
究極はヒトです。
スポーツも政治も職種や業種も関係なくなってきます。

私の友人達はみんな違うタイプです。
住んでいる所も、会社の規模も、年収も・・・
共通しているのは自分で物事を決定しながら前へ進んでいます。
もちろん様々な情報やアドバイスを聞き入れられる域にあります。

お互い多忙なハズなのに結構簡単にお互い時間調整ができるということです。
連絡も直ぐに取りあえます。約束を守ります。
スマホも携帯も誰もいじりません。

この域ではない方々に共通しているのは直ぐに連絡がとれない。
約束や返答に時間かかかる。遅れてくる。
返答も曖昧で自分で決められない。
誰かのアドバイスや同意見でないと動こうとしない。
知り合いの自慢話が多い。
固定概念から抜け出せない。
話し中でもスマホ片手入力しながら・・・の方もいるかもしれません。

子ども達にはサッカーも人生も自分で物事を決定しながら前へ進んでいけるヒトであって欲しいと願っています。

立春大吉は縦読みすると表からも裏からも同じように読めます。
人間として表面も裏面(内面)も同じように磨いていきましょう。

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2月4日。立春の朝7時30分。窓辺からDENに朝日が差し込みました。
椅子の表も裏も立春の陽光で綺麗なコントラストです。
偶然の一枚。
まさに立春大吉のDEN。