本脳とは

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今日もある方との会話から一日がスタートした。

人間の持っている全力という力をどこまでどうやって出せるようにできるのか。

「本能は生まれつき持っているもの」と片付けるべきではなくて、使わないでおくのではなくて、人間だれしもが持っているものを、どう引き出せるか、本人に気づかせる事ができるか。
それが役割ではないか。

小さいときに気づかせる。
小さければ小さいときほど、その経験が活きてくる。
今しかない。

本能という脳をどう刺激していけるか。

言葉の魂を発し続けて行くこと。
それは幼児だろうがなんら関係無い。
言葉に魂が宿っていれば。
言葉は分からなくてもひとりの人間として感じ取れる。

言霊によってひとりの人間の可能性が変わる。
人生が変わる。
運命が変えられる。
それは奇跡として語られることすらある。

言葉の表面だけの、活字ひとつを読み取ったところで、それは今しか語れないだけであってなんら深みのないことだ。

言葉の奥底の、伝えたい、言いたい、見えないものを気づかせられるか。
感じさせることができるか。
それこそが伝える側の魂の質の問題。

話しが少しズレるかもしれないが、
今のサッカーが本当に素晴らしいのかと言うと、そんなことはない。
そう思ってはいけない。
10年前も20年前も30年前も40年前も50年前もいつの時代も素晴らしいのがサッカーでありスポーツや芸術だ。

昔よりも今の方がサッカーの魅力は衰退しているようにすら感じる。
それは簡単に複製できる時代だからだ。
たまにサッカーゲームの攻略本と錯覚してしまうときすらある。

本能を呼び起こすとは脳を刺激することではないかと思う。
私は専門家ではないので学術的な見解は違うのだろう。
それでもそう思っている。

美味しいと脳が思えば美味しいものは美味しい。
褒められたら、もっと上手くなろうとトレーニングをするだろう。
今に感謝出来れば、幸せになれる。元気が出てくる。ポジティブになれる。

今、世界が日本が、未知なるウィルスによって試練に立たされている。
日本がひとつになって、世界中がひとつになって、みんなでポジティブな言葉の魂を発し続けて行く必要がある。

本脳をポジティブに世界中がひとつになる。
素晴らしい未来を次なる世代に残す。
それこそが人間としての本能なのではないだろうか。

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本当にそれでサッカーが好きなのだろうか。

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今日もある方との会話から一日がスタートしました。

サッカーが好きで好きでしかたない選手。

サッカーやっている子どもはみんなサッカーが大好きだと言うだろう。
サッカーをやっている子の親もまた、うちの子はサッカーが大好きなんですと言うだろう。

時間でグランドへ来て、時間で帰る。
お金を出して、サッカークラブで教わって、コーチ達とフレンドリーに会話してそれで終わり。
家に帰ればサッカーの事ではないことに頭も身体も無意識に切り替わっている。

本当にそれでサッカーが好きなのだろうか。

人のサッカーを観ているよりも、自分がサッカーをすることが好き。
高校選手権決勝観に行くよりも、Jリーグ観に行くよりも、ボールを蹴っている時間の方が好き。

見えない所でサッカーをやり続ける選手。

サッカーは誰の為なのか。

サッカーはなんなの?

誰がやるの。

関わる人間達がもっともっとサッカーの本質を感じるには、もっともっと下の年代に関わっていかないといけない。

失礼ながら、それがないから、上の年代に行けば行くほど、試合に勝つ、優勝、その為の選手獲得となり、選手は辛さ、耐えることとの戦いがメインとなっていくのではないか。

サッカーに向き合うコラソン(心)の問題は選手達ではなくて、育成年代の、表現する側の、関わる大人達の問題だ。

サッカーの心に火を灯す。
火を灯すにはその大人が火を持っていないと。
自分の火を少年に灯してあげないと。
それ無くして、システムや戦術理解はありえない。

今一度考えるべきだ。

私はサッカーが好きで好きでたまらない子どもを育てたい。

15日間noteを毎日書いていた理由

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新型コロナウィルスの影響で私のクラブは活動を中止していました。
そして昨日から暫定ではありますが活動を再開しました。

この期間にクラブ限定ページ内で子ども達には毎日課題を出したりスタッフ達やOB達が動画をアップしてくれました。
課題をクリアーした選手たちからも動画が寄せられてきました。

そんな中、本来であれば子ども達がクラブでトレーニングをしている2時間を私も自分のトレーニングの時間に充てる事にしました。

ジョギングすることも考えました。
スキーをする事も考えました。
絵を描く事も考えました。
それだと自分だけになってしまいます。
もちろん自分が心身ともに健康力をアップすることは間接的にはクラブの為にはなります。
これらはその2時間以外で時間を作れる日は実行することにしました。
実際は実行はできずスタッフ達と毎日コロナ対策に追われておりました。

そして、毎日ブログを書くことに決めました。
どうせやるならいつもとは違う書き方はないか考えました。
以前に大人になってから学ぶサッカーの本質のKeiさんからnoteを奨められことを思い出してnoteで書いてみることにしたわけです。
ツィッターも今まではつぶやいたことはありませんでしたが感じ時にはつぶやくことも意識してみました。

noteの中身は、自分の考え、今感じている事、2005年から書き続けているブログ「フットボール症候群」から今の自分が再確認したい事をnoteに書くことにしました。
そして、たまたま見ていただいた「誰か」の方にも水一滴分でもプラスになればという思いで、noteに自分の考え方を残すように毎日できるだけ朝に書くことにしてきました。

15日間noteを書き続けて感じた事は、やっぱり私は子ども達とサッカーがやりたいのだと思いました。
そしてサッカーを純粋に楽しめる子ども達の環境を作って行きたいと感じることができました。
これが一番の収穫でした。

noteを書き続ける事によって、自分の思考を整理出来ました。
これからもnoteは続けてみようと思っています。

コロナ菌がここまで強烈とは想像を超えていました。
想像を越える選手は大歓迎ですが、コロナはシャレにはなりません。

日本そして世界が平常に戻ることを願います。

ホモ・サピエンス

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クラブ休み期間中、本棚から色々と本を読み返している。
今度は「サピエンス全史」上下巻を読みかえした。

3年前に息子から奨められた本。
読みながら「息子も成長したな」と感じたものだ。

何故ならば、人類の進化や文明の発達、難しい言葉や言い回しで理解しづらい点も多々ある。
それでも単なる歴史書ではなくて本当に面白かった。
息子もまた同様に感じていたのだろうと想像すると、嬉しかったし、成長したと感じたのだと思う。

「サピエンス全史」は特に上巻は一気に読み終えた。
そして今回も同じく一気に読み終えた。

第一章「認知革命」の活字から始まる。
サッカーにおいて「認知」はトレンドだけに興味深く入って行ける。

人間が地球を支配できるようになったのは虚構であり想像力であると著者のユヴァル・ノア・ハラリは解説している。

伝説や神話、神々、宗教は認知革命に伴って・・「気を付けろ、ライオンだ」といえる動物や人類種は多くいた・・・サピエンスは「ライオンはわが部族の守護霊だ」と言える虚構・想像する能力を獲得した。・・・その事が人類史上一番大きな革命(認知革命)であった。P38

このような言語の数々のおかけで、未来を信じることで今を我慢できたからこそ第二章の「農業革命」という詐欺の厳しい時代を乗り越えた。
この想像力のおかげで複雑な社会を形成することが可能になり、現代まで生き残っているのがサピエンスなんだと説いている。

ユヴァル・ノア・ハラリはこうも言っている。
サルに将来沢山バナナが食べられるからと言ったところでそのサルが持っているバナナは譲ってもらないが、サピエンスは虚構と想像を手に入れたことでバナナを讓ることができる。
サピエンスは無数の他人と柔軟に協力できたことで世界を支配しサルは動物園の檻の中に閉じ込められたとも語っている。

下巻では第四章の「科学革命」によって虚構や想像力に科学的根拠が持ち込まれたことが書かれている。

それでもラストには人生の意義、幸福度を測ることが書かれている。

そして、人類は飢餓や疾病、戦争を減らしサピエンスの境遇に関してはようやく進歩を遂げた。他の動物にたちの境遇はかってないほどの速さで悪化の一途を辿っている。何処へ向かっているのか誰にもわからない。
仲間の動物や周囲の生態系を悲惨な目に遭わせ、自分達の快楽や楽しみを追い求め、それでも満足していないでいる。
こんな不満で無責任な神々ほど危険なものがあるだろうか。
で終わっています。

ホモ・サピエンスとは賢い人間の意味。
そんな人間の素晴らしい所は、やはり未来を想像できる能力なんだと思う。

そんな想像力があるのだから、生態系や動物たちの悪化は自分達も含まれている事に既に想像出来ていると信じたい。

ホモ・サピエンスが本当に賢い人間という意味であるならば。

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本を読む

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本棚に入りきらなくなったので古いサッカー本を整理しています。
選手達や若い指導者の方とかに結構あげてしまったけど、こうやって整理していたら想像以上にありました。

リビングの本棚はサッカーの本だけです。
書斎の本棚はサッカー関係以外の本です。

振り返ってみると、それにしても昔はサッカー関係の本をよう読みました。
今はサッカー関係の本はほぼ読まくなりました。

歳とともに、食事と一緒で本の嗜好も変わるみたいです。

おそらくだけど、若い時、毎日サッカー本を読みあさっていたのは、サッカーに対する貪欲さからなんだと思います。

私は正直言って、プレーヤーとしての輝かしい経歴もないし、海外で勉強した経験もない。細々と小さな宿を経営している普通の田舎のオヤジです。

だからこそ、真剣な眼差しで俺のことを監督って慕ってくれているカワイイ子ども達に対して、もっともっとサッカーを知らなければいけない!そんな気持ちの毎日でいたんだと思う。
絶対そう思う。

当時は加藤久さんのサッカー入門を何度も読み返して、インステップやヘディングの教え方を練習した。ほんと懐かしいな。
その本は10数年前になかなか試合に出られない選手へあげてしまったけど。

そんな時代を経て、子ども達のサッカーレベルも上がってきて、ある程度まで到達すると、そこから先は、自分で考えたり工夫したりしないと到達できないステージになる。
何事でもそうだけど、ここからが分かれ道なんだ。
本当に好きなのか!の。

そんな子ども達をさらなるステージへ導く必要に迫られて、俺が読む本の中身が自然にサッカーではない分野にシフトしていったんだと思う。
そしたら教育心理学を学びたくなって47歳で大学受験までしてしまった。
大学生を2度したわけだけど、大学とは学びたい人が行く場所なんだって悟ったのもこの時でした。本当に恥ずかしい。

そして、気がついたら沢山の本を読んでいただけなんだけど、本の活字から様々な事をイメージして膨らませていける事が本の素晴らしさだと思う。

だから同じ本でも、もう一度読むと違う気づきがあるし、数年ぶりに読むと全く違う本に感じられるのが本の魅力だ。

私の場合なんだけど、本を読むのは目的ではなくて自分を磨く為の方法であったと今は感じています。
YouTubeとか動画全盛時代だけど、知識を得る目的だけならそれで良いと思うけど、自分の糧にするならば絶対に本を読む時間を作った方が良いと思います。
本を読む。
サッカー本を整理しながら、途中懐かしくなって脱線しながら・・読みながら・・自然と笑みがこぼれました。
そんな。本を読む。ことについて書きました。

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