挑戦するとは戦いに挑むこと。
戦いに挑む先には勝利という目的がある。
そう考えると、実力もなく闇雲にトライすることは挑戦とは言わないな。
私のチームは個人技術・特にドリブルのチームというイメージがあるらしいが、
これは少しニュアンスが異なるし、全国レベルでの立ち位置で考えるととてもではないがドリブルに特化したチームなんて恥ずかしくて言えない。
正直、県内でも他チーム選手の方がドリブル上手い選手ゴロゴロいる。
そんな田舎レベルの下手くそチームであるからこそ
限られた時間の中で磨いて欲しい技術の優先順位がドリブルであるだけのこと。
パスもロングキックも戦術も絶対に必要なこと。
ドリブルとは10人の仲間に助けられている中でボールを運ぶ技術である。
ワンタッチの微妙なコントロール連続で成り立ち、常に相手や見方の状況をコンマ数秒の間に判断し続けていく。
この瞬間、瞬間の連続を身につけて行くことでゆとりが出てくると自然とパスコースも見えてくる。
全身全霊を注ぎ続ける緊張感の中で相手を抜き去りゴールを決めた感覚は言葉であらわせられない程、刺激的である。
もうサッカーはやめられない。
ワールドカップにおいても観客が一番興奮する瞬間だ。
なによりも相手と接触する可能性が高い。
削られたり、引っ張られたり、押されたり、バランスを崩した中でボールを扱い続ける。
間違いなく精神的にも身体的(アジリティー)にも向上する。
育成年代には必須だ。
そして、
一番大切なことは選手本人。
自分の技術・将来を見つめること。
13歳、14歳、15歳の自分が今、何を磨いていくことが近い将来において大切かを考え続ける事だ。
その環境を指導者や親が作れるかどうかだ。
メッシやネイマールは特別な存在、なれるわけはないのだからドリブルはさせないというチームもあるらしい。
様々な考え方があることは大切だが、そこからは挑戦するこころは生まれづらいだろう。
そして仕上げのユース年代(高校)へ送り出すのであるが、
ドリブラーだから、誰もが個人テクニック重視の高校へ行かせるというのもナンセンスと思っている。
確かにドリブルはその子の武器ではあるが、世の中は自分の嗜好が集まった中にいるとそれが世の中の基準と勘違いするおそれが一番困る。
自分の武器がドリブル重視でない高校でも認められ仲間から信頼され通用することが重要である。
これは社会生活においても同様だ。
「挑戦するこころ」とは未来を見据え、コツコツと地道に「自分という人間まるごと」磨き続ける事である。
自分のこころへの挑みであり、永遠の戦いともいえる。
「挑戦するこころ」がチームに仲間に社会に迷惑をかけているのであれば
それは「挑戦するこころ」ではなく「身勝手な信頼されない可哀想なヤツ」なだけだ。