言葉でサッカーをするな、心でサッカーをしょう。

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先日読んだ本の一文。
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「心戒十訓」
1.人を大切にする人は人から大切にされる
2.人間関係は相手の長所と付き合うものだ
3.人は何をしてもらうかより何が人に出来るかが大切である
4.仕事では頭を使い、人間関係では心を使え
5.挨拶はされるものではなくするものである
6.仕事は言われてするものではなく、探してするものである
7.わかるだけが勉強ではない、出来る事が勉強だ
8.美人より美心
9.言葉で語るな、心で語れ
10.良い人生は、良い準備から始まる

福沢諭吉は謎だらけ。心訓小説 [著 清水 義範]より引用
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日常での挨拶できる選手とできない選手の差は広がる。
心で挨拶をしているかどうかの差だと思う。

たとえば
これから練習が始まる、一日が始まる。

まずはその最初の挨拶にこそ、
「今日の俺はやってやるぞ」
「よし!今日もサッカー上手くなるぞ」
「コーチ!今日もよろしくお願いします」・・・・
まずは心に、純粋な気持ちを持つ。

そして身体全体から溢れ出る若者としてのエネルギーが噴出してこないことには始まらない。
声がでかければ良いわけではもちろんないが、笑顔でしっかりと挨拶できればまずは初めの一歩だと思う。

真剣勝負が始まる挨拶。
しっかりした心の準備をしてグランドに入って欲しい。

それができていれば、無言で頭を下げただけでも相手の心に響くというものだ。

自分のイメージを膨らまさせているか。感性を磨いているか。

大好きなサッカーの時間に感謝して

心で動ける人間になりなさい。

選手もコーチも、そして保護者の皆さんも

言葉でサッカーをしない。心でサッカーをしましょう。

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石ころのような個性もある

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「ダイヤモンドのような個性もあれば石ころのような個性もある。石ころでもそれを最高の個性に仕上げる事が重要である」本田宗一郎さんの格言である。

ダイヤモンドも石ころも個性において上も下もないと思っています。

石ころのほうが世の中においてダイヤモンドよりよほど役に立っています。

ただ全く目立っていないだけです。空気の存在と変わらないのかもしれません。

ダイヤモンドを沢山集めているだけの強いと呼ばれているチームが沢山あります。

個性を仕上げなければ宝の持ち腐れとなります。

私はダイヤモンドを集めません。

お金がないので。買えません。
お金があったら人工芝グランド作ります。
お金があったらクラブの会費を無料にします。
それでもまだお金があったら子ども達を海外遠征へ無料で連れて行きます。

私はダイヤモンドでも石ころも関係無くて、この世の中で出会った子ども達を最高に磨き上げることが生きがいとなっています。

石ころがダイヤモンドよりも輝くかもしれません。
そうしたらダイヤモンドになっています。

そう信じて磨き続けています。

ダイヤモンドの原石の子ども達は磨いてくれる所へ行かないと石ころよりも輝かなくなることでしょう。

それはとても残念なことです。
残念で片付けたくはないです。

そんなことを感じた週末でした。

指導者のみなさん。お互い研磨士として精進していきましょう。
鈍刀
鈍刀をいくら磨いても無駄なことだというが、
何もそんなことばに耳を借す必要はない。
せっせと磨くのだ。刀は光らないかもしれないが、磨く本人が変わってくる。
つまり刀がすまぬすまぬと言いながら、
磨く本人を光るものにしてくれるのだ。
坂村真民

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年頭所感 2020年

新年あけましておめでとうございます。
令和最初の新年となりました。

昭和そして平成の30年間のレガシーから令和となり目に見えない大きなうねりのような強烈な変化を感じます。
驚くような早さで人々が我先に突き進んでいるようです。
その先に何があるのか誰にもわかりません。

昭和的に例えると、バーゲンセール開店と同時に殺到する空気感とどこか似ています。
私はその空気感が苦手です。息苦しさを感じます。

この違和感はジェネレーションギャップなのかもしれません。
単なる杞憂であって欲しいと願います。

それでも見失ってはいけないモノがあると思います。
物事の本質を見極める人間力です。
きっとそれは平成よりも昭和、昭和よりも大正、大正よりも明治とコミュニケーションツールが少ない時代ほど人間力におもむきが大きかったことは確かです。

ゆえに育成年代において人間力を磨く場を作って行く必要があります。

拡大の昭和から継続の平成そして縮小の令和へ。

会社に例えると創業者が昭和、二代目が平成、三代目が令和です。
三代目が会社を潰すとよく言われますが、そうならないためには人間力を磨き創造する力が大切となります。

戦争を知らない、裕福が拡大した昭和とどうにか継続してきた平成で育った子ども達が大人となり保護者となり、人を育てる立場となってきた令和。

だからこそ、人間力がないと創業者の開拓時代すら想像もできない甘やかされた三代目社長と同じになってしまいます。
人間力とは簡単に言えば道徳です。
自分の良心によって、善を行い、悪を行わないことです。
挨拶や目上の方を立てることはとても大切なことです。
人間力ある方にはこの意味の本質が理解できると思います。

私はクラブ設立した2001年からの夢があります。
世界に通用する人間をこの八ヶ岳から輩出することです。
サッカーを通じて人生を豊かにできる大人になって欲しいことです。

私には信念があります。
自分の両親(良心)に恥じない生き方をする。
人間力を磨く事が全ての根底になくてはならない。
育成には時間と愛情が必要である。金儲けが一番であってはならない。

強いチームを作るのではない。気がつけば強いチームになっていただけであり、子ども達に本気で正面から接し人間として一対一の真剣勝負をしないのであれば指導者はできない。
自分の家庭を守れない、自分の子どもを育てられない人間が他所様のお子様を育てる事は出来ないとも思っています。

こころの余裕を持った大人達が増えて欲しいです。
子ども達に昔の横綱のようにどっしりと受け止めてから戦えるだけの心技体を身につけて欲しいです。

新年になっても信念は変わりません。
心の軸を持ち続けることが人間として、ひいては地域の皆様やクラブの子ども達、仲間の皆様にも幸せをもたらすと思う気持ちに迷いはありません。

今日、そして明日、未来へ向かって愚直に精進し続けます。
本年も皆様のご家庭が笑顔あふれる幸せな毎日であることを願っております。

2020年 元旦
田畑雅宏

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家族って素晴らしいな

先日、長男、次男、長女の子ども達3人が、私と妻を1泊2日の温泉旅行に招待してくれた。

久しぶりに温泉にゆっくり浸かれて、久しぶりに心が穏やかになれた気がする。

なによりも、こうして子ども達が僕と妻の事を想ってくれていることが本当に嬉しかったし、みんな立派に成長してくれたことは俺と妻の自慢だし、誇りだ。

本当に嬉しかったよ。

家族って素晴らしいな。
改めてそう感じた。

そんな家族に囲まれて幸せです。

子ども達も同様に幸せな家庭をそれぞれ築いていくのだろうな。

ありがとう!
愛する子どもたち!

そしてこれからもヨロシク!

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子ども達から、「ありがとう」のケーキまで!
食事もメチャクチャに美味しかった。
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家族全員で旅行したのは何年ぶりだろうか?
長男が高校生の時がラストだった気がするから15年ぶりかな?
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31年前に妻と2人でDENを立ち上げた時は想像もしていなかった。
31年後の今、子供たち3人と孫2人に囲まれている。
感謝以外の言葉は見当たらない。
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部屋にも露天風呂。(^^)!豪華!
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飛騨高山はじっくり見て回れませんでしたが、孫たちとも久しぶりに触れ合えたし、本当に素晴らしい時間を子ども達からプレゼントしてもらえました。
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後ろの旅館の文字は、菅官房長官が掲げた「令和」を書かれた茂住修身氏だそうです。
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DENに戻ってきてからも、孫たちが遊んでくれました。(^^)!

鋭気を養えました。
自分の生き方に自信が蘇ってきました。
シンプルに生きていきます。

グランデスタッフたちも家族です。

ピテカントロプスは続く。

教え子から遺書を送られた先生

「教え子から遺書を送られた先生」

徳永先生は、熊本県の歴史始まって以来、
30代の若さで小学校の校長になられたほど優秀でしたが、

「教員の仕事は、教壇に立って教えることだ」

と5年で校長を降り、自ら志願して一教員に戻った人でした。

だから、どの学校に行っても校長に嫌われるんですね。

自分より実力が上なものだから。

それで2年ごとに学校を出されてしまうんだけど
行く先々で教師たちが一番敬遠している難しいクラスを受け持って
みんなを勉強好きに変えてしまうんです。

徳永先生は、昼飯を食べない人でした。

なぜ食べないかというと、終戦直後、
昼の時間になると、弁当を持ってこられない子供たちが
さーっと教室からいなくなる。

それでひょっと校庭を見たら、
その子たちが遊んでいたんです。

その時から、自分もピタッと昼飯を食べるのを止めて、
その子たちと楽しい遊びをして過ごすようになりました。

以来、昼飯はずっと食べない人生を送るんですよ。

晩年になっても。

これは戦前の話ですが、

「明日は工作で切り出しナイフを使うから、持っておいで」

と言って、児童たちを帰したら、次の日の朝、

「先生、昨日買ったばかりのナイフが無くなりました」

という子が現れました。

先生は、どの子が盗ったか分かるんですね。

この生徒は、兄さんがすばらしく頭がよく、
いつも家で比較されて、偏愛の中で冷たく育っておりました。

学用品を買うのにも

「馬鹿タレ、勉強もできんものが、何を金が必要か」

と叱られるのです。

「あの子ではなかろうか」と暗然とした徳永先生は考えて、
一つの方法をとりました。

昼休みの時間、中には運動場に出ない生徒もいますが、
この日は、全員を運動場に出して遊ばせました。

それで、全員外に出して遊ばせているうちに、
盗ったと思われる子供の机を見たら、

やっぱり、持ち主の名前を削り取って、
布に包んで入っていました。

先生は、すぐに学校の裏の文房具屋に走って、同じナイフを買い、
盗られた子の机の中に入れておきました。

子供たちが教室に帰ってきた時、

「おい、もう一度ナイフをよく探してごらん」

と言うと、

「先生、ありました」

と。

そして、

「むやみに人を疑うものじゃないぞ」

と言うんです。

その子は教室の一隅から、うるんだ眼で先生を見たといいます。

それから時代が流れ、戦時中です。

特攻隊が出陣する時、みんなお父さん、お母さんに書くのに、
たった一通、徳永先生への遺書があったのです。

それは、あの日、ナイフを盗った子からのものでした。

「先生、ありがとうございました。

あのナイフ事件以来、徳永先生のような人生を送りたいと
思うようになりました。

明日は、ポーランジャの空で僕は見事に戦死できると思います。

その前にたった一言、先生にお礼を申し上げたい。

あの時に、先生はなんにも言わないで僕を許してくださいました。

死の寸前になってそのことを思い出し
『先生ありがとうございました』とお礼を申し上げます。

どうぞ先生、体を元気にして、
僕のような子どもをよろしくお願いします」

というのが絶筆でした。

彼は昭和19年5月12日、
ニューギニアのポーランジャの空中戦で戦死しました。

若冠十九歳でした。

教え子から遺書を残された徳永先生、

愛しい教え子を死地に送り出さねばならなかったこの時代、
徳永先生は、深い悲しみに沈みこみました。

徳永先生はあの時、自分が彼と同じ境遇におかれたら、
これ以上の荒れ方をするだろうと考えたそうです。

「どうしてあの子を怒ることができただろうか・・・」

と。

今、その教え子の墓前には、
先生が植えた八重クチナシが大きく育っています。

それから、こんな話もあります。

先生が熊本の山間の過疎地の教員をやられていた頃、
両親が分からない子がおったんです。

暴れ者でね、とうとう大変な悪さをやらかした時、
徳永先生は宿直の夜、

「君の精神を叩き直してやる」

と言って、その子をぎゅっと抱いて寝てやるんですよ。

後に彼は会社経営で成功して
身寄りのない者を引き取って
立派に成長させては世の中に出していました。

「自分のいまがあるのは、小学校4年生の時に
徳永康起先生に抱いて寝ていただいたのが始まりです。
先生、いずこにおられましょうか」

という新聞広告を出して、40年ぶりに再会した
なんていう物語もありました。

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※『致知』2008年3月号「楽天知命」・超凡破格の教育者徳永康起先生~抜粋・引用しました。

どんなに時代が違っても、変わっても、
人として一番大切なことの本質は不偏です。

どう感じるかはあなた次第ですが。

グランデの原点として大切にしたいことでもあります。

感謝!

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